※日本史

日本史(1)福岡大19/02/16(1)縄文、飛鳥時代:旧石器時代を経て弥生時代には小国家が分立し始めた。小国家の紛争に通じ巨大な支配者が出現して4世紀頃から畿内の豪族達が連合して大和政権を作り上げた。※(ア)石器時代(一万年以前の更新世、洪積世:打石器、旧石器のみを使用した狩猟や採集の生活していった。土器や弓矢はまだ使用していない。1949に相沢忠洋が岩宿遺跡を群馬県で発見した。縄文時代:前8000年から前3世紀、弥生時代:前3世紀から紀元前3世紀(A)時期:縄文時代は紀元前8000年からら前3世紀の完新世。弥生時代は前3世紀から紀元前3世紀。(B)生活:縄文時代は狩猟、採集中心。弥生は九州北部水田稲作開始、前記は湿田であったが、中、後期は乾田の開発も進められた。(C)住居、建築物:縄文時代は竪穴住居、弥生時代は高床倉庫と竪穴住居。(D)土器:縄文土器、厚手で黒褐色、低温で焼き脆い。弥生土器、薄手、赤褐色、高温で焼き硬い多様な形。(E)道具:縄文時代は弓矢、骨角器、打製石器。弥生台は木製農具、石包丁、金属器
日本史(2)福岡大19/02/16(F)遺跡:縄文時代は、大森貝塚の東京都、三内守山遺跡青森県。弥生時代は野呂遺跡の静岡県、吉野ヶ里遺跡の佐賀県。(G)その他の特徴:縄文時代はアニミズム、土偶、抜歯、屈葬。弥生時代は、環濠集落、伸展葬。(3)小国分立:前一世紀から三世紀にかけて日本に於いて小国家が分立していった時代については中国の歴史書にも記されている。(ア)中国の歴史書:漢書、地理志:前一世紀、日本は100余り国に分立し朝鮮に使者を派遣した。(イ)後漢書、東夷伝:前1から2世紀:起源57年、奴国王が後漢の光武帝に朝貢した。漢委奴国王の金印の印綬を授かる。魏志、倭人伝:邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝に使者を派遣した。金印と銅鏡を授かる。(4)大和政権:大王を統治者とする大和政権は私有地として調停が屯倉、豪族が田荘を有し、私有民も支配するという私地私民制であった。(ア)基盤:(A)氏姓制度:大王を中心にする氏姓制度の下、豪族を従え全国を支配した。大和政権の構造:中央は大王:だいおう→大臣:おおおみ→大連:おおわらじ→伴造:とものみやつこ→伴:とも→品部:しなべ。地方は国造:くにのみやつこ→県主:あがたぬし。
日本史(3)福岡大19/02/16@氏(うじ):豪族の血縁内縁の結び付きをもとにした組織であり、氏上(首長)が氏人を支配して大和政権に仕えた。A姓(かばね):各氏に与えられた家柄や地位を表す称号であり、大王を中心とする身分序列を示す。(イ)私地私民制:朝廷も豪族も各々私地と私有民を持ち経済基盤としていった。朝廷:私有地、屯倉(みやけ)。私有民(部民)、田部、名代、子代。豪族:田荘(たどころ)、部曲(かきべ)。(ウ)大陸との関り:大和政権は朝鮮半島の進んだ技術や鉄資源を獲得する為に朝鮮半島に進出することからその様子が中国の歴史書に出てくる。高句麗(こうくり)の好大王の碑文、宋書、倭の国伝。5世紀に漢字が伝来し6世紀には儒教、仏教、百済が伝わる。大陸からの渡来人が焼き物や織物などの技術を伝えた。(2)古墳文化:4世紀から7世紀にかけて大和政権下の各地に古墳が作られた。A=前古墳、B=中期古墳、C=後期古墳、ア時期、イ=地域、ウ=形状、エ=副葬品、オ=遺跡。(ア)(A)三世紀半から4世紀(B)4世紀末から5世紀(C)6世紀から7世紀。(イ)(A)畿内の丘陵上(B)全国各地の平地(C)平地、山間部(ウ)(A)前方後古墳円墳(B)巨大前方古墳(C)小規模前方古墳、小円古墳、群集古墳。
日本史(4)福岡大19/02/16(エ)(A)鉄製工具、銅鏡、玉など呪術的なものが多い司祭者的な性格(B)馬具、甲冑、、鉄製武器など政治軍事的なものが多い強大な権力者。(C)武器、装身具、須恵器(すえき)など日常的なものが多い有力農民の台頭。(オ)(A)箸墓古墳の奈良(B)大仙稜古墳の大阪(C)高松塚古墳の奈良。(5)聖徳太子の政治の摂政政治:豪族間の抗争が激化して仏教を受け入れるべきとする蘇我氏(そがし)の馬子と神道を守る物部氏が対立し物部氏が滅亡した。推古天皇が592年即位して593年に甥の聖徳太子を摂政とした、(ア)603年の冠位十二階の制:才能に応じての人材登用、氏姓制度の世襲を打破した。(イ)604年の憲法十七条:仏教を基本的思想においた政治方針で豪族に国家の役人としての心構えを説いた。607年からの遣隋使(けんずいし)の派遣:大陸の制度、文化の直接摂取を図り対等外交を求めた。607年の小野妹子(おののいもこ)、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)、南淵請安(みなぶものしょうあん)を派遣した。
日本史(5)福岡大19/02/16※律令国家の形成とその発展:7世紀中番日本では豪族の支配を排除し天皇を中心とする中央集権国家体制を目指す動きが生じ大化の改新、7世紀末にかけて唐を模範とした律令による国家体制が次第に形成されていった。奈良時代には藤原氏の政界進出と公地公民の崩壊と言う変化が生じた。(1)645年大化の改新と律令国家の形成@律令国家の形成は大化の改新から着手され本格的な律令の大宝律令が制定されることで完成を見た。A私地私有は廃止され、公地公民が導入された。一定の例外が貴族や寺社に見られていった。(1)大化の改新:中大兄皇子後の天智天皇、中臣鎌足のち藤原姓となるが蘇我蝦夷、入鹿父子を滅ぼして新政権を樹立する。年号を大化とし都を飛鳥から難波の大阪に移し国博士の政治顧問に高向黒理、僧旻を任命し、唐の諸制度の積極的な導入を図った。(2)646年改新の詔の内容(ア)公地公民の制:朝廷の国家による土地、人民の支配を宣言し私地私有制を廃止した。しかし、貴族など特権階級には位や官職によって位田や、職田などを支給し、寺社には自給される寺田や神田に免税措置が取られた。(イ)行政区画:畿内、国、郡を地方組織として国司や、郡司を設置した。(ウ)班田収授法:戸籍を6年毎に作成し、計帳の基本台帳を作成した。(エ)税制:租庸調(そようちょう)等統一的な税制を制定。
日本史(6)福岡大19/02/17(3)外交問題:朝鮮半島では、新羅(しらぎ)が勢力を増し618年には隋に変った唐と協力して百済(くだら)を滅ぼした。中大兄皇子は軍を百済に派遣するが唐、新羅連合軍に大敗663年白村江の戦いをした。(4)天智天皇の政治:大津宮に遷都後即位し近衛令と庚午年籍(こうごねんじゃく)の最初の戸籍を制定した。(5)壬申の乱(じんしんのらん):天智天皇の死後大海人皇子(おおあまのみこ)が弟で672年壬申の乱にて大友皇子(子)に勝利して天武天皇となる。(6)天武天皇の政治:飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に遷都した。八色(やくさ)の姓を制定し、豪族の官僚化を推し進め天皇の絶対性を強調した。(7)律令制度は律が刑法、令が行政法と民法と大宝令の701年。(ア)官制:中央は一二官八省は神紙宮は神事祭祀(しんじさいし)を司る。大政官は一般政務を司る8省。地方は国司は中央から派遣。郡司、里長(さとおさ)は地方豪族。(イ)班田収授法:6歳以上の男女に口分田を支給。男女や身分に因って面積は異なる。死後は国家に戻すとされていた。(ウ)農民負担:租は稲を収める。庸は布を納める。調は特産物を収める。雑徭(ざつよう)は国司の命令による労役で税の中で最も負担の高い負担になる年間60日、出挙は公出挙、私出挙は春に稲を貸し、秋に利息を加えて徴収。
日本史(7)福岡大19/02/17兵役:衛士は京内や宮廷の等の警備。防人:大宰府で九州沿岸の警備。(2)平城京と奈良時代(ア)710年平城京遷都:元明天皇の時唐の都長安に習い平城京を建設した。(イ)遣唐使:唐の制度や文化を摂取して律令国家の確立や文化の発展に寄与した。630年の第一回には犬上御鍬を派遣し、その後菅原道真(すがわらのみちざね)の建議に因って廃止されるまでに894年安倍仲麻呂、吉備真備(きびのまきび)らを派遣した。(ウ)蓄銭叔位例(ちくせんしゅくいれい):貨幣流通促進の為蓄銭量に応じて位階を付与した。現物交換が主流で効果に欠けた。(2)聖武天皇と藤原氏の政界進出の流れ:藤原不比等の藤原鎌足の子が政界に進出し、天皇との結び付きを強化して娘の光明子を聖武天皇に嫁がせる。不比等の死後4人の子供が政界へ進出した。(ア)長屋王の変:皇族の長屋王を自殺させた変後、光明子が聖武天皇の皇后になった。藤原の権力が強まっていった。(イ)藤原広嗣の乱:藤原氏に代わり、皇族の橘諸兄(たちばなもろえ)が政界を握るが藤原広嗣が反乱を起こす。聖武天皇は度重なる政変に悩み、都を転々と移す。仏教の力で国を治める為、全国に国分寺、国分尼寺を建立(こんりゅう)東大寺大仏鋳造した。
日本史(8)福岡大19/02/17(ウ)橘奈良麻呂の変:藤原仲麻呂が権力を握る。橘奈良麻呂の兄の子が仲麻呂を倒そうとするが失敗した。仲麻呂は、恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜る(たわまる)。(エ)恵美押勝の乱:光明皇太后の死後後盾を失った押勝は孤立する。考謙上皇は僧の道鏡を寵愛(ちょうあい)したため押勝が反乱起こすが上皇軍に破れ殺される。(エ)道鏡の追放:考謙上皇は再び天皇に付就き称徳天皇と成った。道鏡は皇位に就こうとしたが失敗した。(3)土地制度の推移、公地公民の変容、@公地公民制に於ける農民の負担は重く、小分田を捨て逃亡や浮浪(ふろう)をする農民が増加した。A三世一身法や聖田永年私財法によって土地所有が認められ荘園が発展した。重税の為、農民の逃亡や浮浪による土地荒廃と財政危機を招いた。(ア)722年百万町歩の開発計画:口分田不足解消の為に計画されたが実施されなかった。(イ)723年三世一身法:新しく開墾した土地を三世代に渡って所有することを認めた。(ウ)743年聖田永年私財法:大寺院や中央貴族は大規模な開墾を行い、荘園が発生し、公地公民制の崩壊へ向かう契機となった。(4)国家仏教の発展:鑑真は唐から来日し唐招提寺を建立し戒律を伝える。行基は仏教に根付いた社会事業や大仏建立に尽くした。
日本史(9)福岡大19/02/17※光明皇后:聖武天皇の皇后で悲田院を作って孤児や病人を収容して施薬院を設けて病院に薬を与え病気の活療させた。※大仏開眼:752年東大寺に於いて行なわれる。※律令制度の崩壊と武士の台頭:794年に遷都されてから、役400年続いた平安時代は@律令制度の再建初期A藤原氏による摂関政治の確立中期B院政後期C荘園の発達全般D武士の台頭と平氏の政権後期に分けられる。(1)律令制度の再建、桓武(かんぶ)嵯峨天皇の政治:桓武天皇は平城京で即位後長岡京、平安京に794年遷都し律令制度の立て直しを図る。(ア)令外官:本来の令にない官職の設置。桓武天皇は国司時代に前任者の不正を監査する勘解由使(かげゆし)蝦夷(えぞ)征伐の為の征夷大将軍を設け嵯峨天皇は秘書官の長の蔵人(くらびと)頭、都の警備司法する検非違使を設置。(イ)蝦夷征伐:坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて蝦夷である東北の豪族を討伐させた。(ウ)班田収授の改革:6年1班を12年1班に定め農民の負担を軽減すると共に財政の安定化を図った。(エ)建児(こんでい)の制:軍団廃止と、郡司の子弟を兵とした。※(オ)格式による律令を部分的に補足と修正する追加法令、式は律令、格の施工細則(せこうさいそく)を指す。三代格式は弘仁格式・嵯峨天皇、貞観格式・清和天皇、延喜格式・後醍醐天皇が有名である。
日本史(10)福岡大19/02/19(2)藤原氏による摂生政治の確立※摂生政治:藤原が人臣で初めての摂生となり藤原基経が初めての関白になった。藤原道長、藤原頼通の時に最盛期を迎えた。(ア)藤原冬嗣:藤原薬子の乱に於いて活躍し嵯峨天皇信任にて蔵人頭になる。(イ)藤原良房:承和の変に於いて、伴建峰(はんこわみね)、橘逸勢(たちばなはやなり)を排斥(はいせき)し、良房が清和天皇の摂政になった。応天門変に於いて伴善男を失脚させた。(ウ)藤原基経(ふじわらもとつね)関白(令外官に就任し、阿衝の紛議で権勢を示した。(エ)藤原時平:宇多天皇が藤原氏を抑えようと起用した菅原道真を醍醐天皇の時に大宰府に左遷させた。醍醐天皇、村上天皇は摂政、関白を設けず天皇親政を行なった。延喜、天暦の治(オ)969年安和の変:源高明(みなもとたかあきら)を左遷さ摂関政治を確立した。(カ)11世紀前半、藤原道長、頼通:藤原道長は摂政に就いたが、関白には就任しなかった。藤原頼通は50年間摂政と関白を務めた。(キ)反藤原の動き:後三条天皇は親政を行い延久の荘園整理令を発布した。記録荘園券喫所による荘園の審査。
日本史(11)福岡大19/02/19(3)院政・上皇による政治:白河上皇が1086年に開始し、白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇により約100年続き、院に荘園の寄進が集中した。八条女院領・鳥羽法皇・大覚寺統、長講堂領、後白河法皇・持明院統等。※(4)武士の登場と台頭10世紀頃地方の豪族と有力農民が武士団を結成して平氏側の桓武天皇の系統と源氏側の清和天皇の系統が有力と成った。※承平天慶の乱935-941年:平将門の乱935年関東、平定盛、藤原秀郷押領使が討伐。藤原純友の乱939年瀬戸内海:源経基、小野好古追補使が討伐。※前九の役1051-62年:安倍氏陸奥の反乱、源頼義、義家が鎮圧。※後三年の役:清原氏陸奥出羽の内紛、源義家が平定。※保元の乱115年:皇室、摂関家内の対立、後白河天皇が勝ち、崇徳上皇が負ける。※平治の乱1159年:後白河上皇近臣の対立、藤原道憲(ふじわらみちのり)、平清盛(たいらきよもりが勝つ、藤原信頼(ふじわらのぶより)、源義朝が負ける。(ウ)平氏政権(1159-85年)平清盛が武士で最初の太政大臣1167年に就任して平氏で官位を独占した。荘園、知行国、貿易が経済基盤であり、日宋貿易(にっそうぼうえき)(大輪田泊にて貿易、輸入品:宋銭、書籍、陶磁器、輸出品:金、硫黄、刀剣。
日本史(12)福岡大19/02/24(5)荘園の発達(ア)初期荘園墾田地系荘園8-9世紀:墾田永年私財法(743年)により荘園が発達した。貴族、寺社、地方豪族から直接経営した。(イ)後期荘園寄進地系荘園):10世紀以降特に院政期に急増した。地方豪族、田堵(たと)有力な農民が開発領主となり土地を支配したがその後国司による地方支配が進み開発領主は国司からの干渉から守る為土地を有力な寺社や、貴族に寄進して保護を受けた寄進地系荘園。※寄進地系荘園の仕組み:不輸権(免租:めんそ)と不入権(立ち入り拒否)獲得の為中央の権力者に荘園を寄進。本家:上級領主、皇族や摂関家など、寄進←→保護、領家:下級領主、寺社や貴族など、寄進←→保護、荘官、壮官:管理者開発領主、年貢、公示、夫役←→管理、荘民:農民、耕作や年貢などの義務を負う。※中世※鎌倉時代:鎌倉時代から室町時代を中世と呼ぶ。源頼朝が鎌倉幕府を開き幕府支配の礎を築き実権が北条氏に移った後は執権政治が行なわれた。元寇(がんこう)を機に鎌倉幕府崩壊の一途を辿る。(1)平氏争乱、治承、寿永の内乱:源頼朝が挙兵し一の谷の戦いや壇の浦(だんのうら)の戦い1185年を経て平氏を滅ぼす。対立した源義経(みなもとのよしつね)を討伐し、奥州藤原氏を滅ぼす。
日本史(13)福岡大19/02/24(2)鎌倉幕府の成立:1185年に守護(しゅご)、地頭(じとう)の任命権と徴税権を獲得、1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命され鎌倉幕府が名実共に確立した。御恩と、奉公(ほうこう)の関係を通じて封建的(ほうけんてき)主従関係が成立した。※幕府の組織:将軍、後に補佐が執権を握る。中央:1180年侍所(さむらいどころ)御家人統制、1184年公文所1191政所(まんどころ)、一般政務。1184年問注所、訴訟裁判。地方1185年守護(諸国)、地頭(荘園や公領の設置。京都守護(承久の乱後は六波探題)、鎮西奉行、奥州奉行。地頭;年貢の徴収、納め入れ、土地の管理、治安維持。※封建的主従関係:将軍←奉公、戦時の軍役、平治の京都大判役、鎌倉番役←御家人。将軍→御恩、本領安堵(ほんりょうあんど)、新恩給与→御家人。(3)源氏は三代の頼朝、頼家、実朝で滅亡し、その後北条氏が執権政治を行い有力御家人を排除しながら実権を掌握して行く。
日本史(14)福岡大19/02/26※歴代執権:北条時政、時政を倒そうとした比企能員(ひぎよしかず)を滅ぼし、2第将軍頼家を暗殺して実朝を3第将軍にする。2代北条義時3代将軍源実朝頼家の子公暁に暗殺され京から摂家将軍の藤原氏を採用した。承久の乱は後鳥羽上皇が倒幕を企画したが一ヶ月で幕府側が勝利し上皇流罪した。六波探題を1221年設置し京都kの警備、朝廷の監視など上皇軍の貴族や武士の所領を没収し地頭を置く。3代北条泰時:連署の設置、執権の補佐役で北条一族が担当する。評定衆の設置、幕府最高の政務や裁判を扱う。有力御家人による合議制である。1232年御成敗式目の制定、武家社会最初の成文法で頼朝依頼の先例や武家社会の道理に基づく51か条から成る、行政、民法、刑事訴訟に関する大綱である。適用は武家社会内部に限られた。貞永式目とも言う。5代北条時頼:引付衆の設置、評定衆の補佐をした。武士の所領問題に関する訴訟を取り扱う。皇族将軍の採用、幕府滅亡まで存続する。
日本史(15)福岡大19/02/268代北条時宗:元のフブライ・ハンの朝貢要求を拒否した。1274年文永の役、異国警固番役、九州北部、長門探題、長門国守護、北条一族担当の設置。1281年弘安の博多鎮西探題の設置。元軍を撃退したが、恩賞は無く御家人生活は窮乏した。9代北条時貞:特宗専制政治、北条氏による専制を強化した。得宗である北条氏惣領と御内人との対立が激化し霜月騒動の安達泰盛滅亡まで発展した。永仁の徳政令、御家人を救済したが却って混乱し失敗した。(4)武家社会の様子(ア)惣領制:一族の惣領の家督を中心に庶子が結束した。所領は分割相続である女子にも相続権が有るものが原則となり、分割相続によって細分化で収入が減少し単独相続へ移行は南北朝から室町にかけ定着した。(イ)幕府と朝廷の二重支配と地頭の横暴:朝廷と幕府の二重支配構造が成立して朝廷は国司、幕府は守護、地頭を通じて支配した。守護、地頭が土地支配を進めるにつれ、国司や荘園領主との争いが起こり、地頭請と下地中分という解決策が執られた。@地頭請(じとううけ):荘園領主が地頭に荘園の管理を任せ年貢の収入を請け負わせる。A下地中分(したじちゅうぶん)荘園を地頭と、荘園領主で半分づつの持分として折半した。
日本史(16)福岡大19/02/26(5)幕府の滅亡:悪党な荘園領主や、幕府に反抗する新しい武士団が現れ、後醍醐天皇は、倒幕計画を企てたが失敗した。正中の変と、元弘の変がある。悪党の楠木正成の抗戦や足利樽氏、新田義貞の参戦により1333年に幕府は滅亡した。※建武新政と南北朝1336年から:天皇新政政権を目標としたが恩賞の公家偏重、武家軽視により、武士の不満が増大し、二条河原落書し、1335年中先代の乱(なかせんだいのらん)等を経て足利樽氏と、朝廷側の対立が深まり1336年建武政権崩壊した。※組織 中央:記録所、雑訴決断所、武者所、恩賞方。地方:陸奥将軍幕府、鎌倉将軍府、国司守護(併置)※南北朝の争乱:足利樽氏は光明天皇の持明院統を京都で擁立北朝対後醍醐天皇の大覚寺統は吉野の奈良へ逃走北畠親房を中心に継戦60年義満時に合体。※室町時代※室町幕府:足利樽氏は建武式目を発表し征夷大将軍に就任し幕府を開く。(1)組織:鎌倉幕府の組織を略踏襲し御成敗式目も修正を加えて踏襲した。※室町幕府の組織 中央:官領:将軍補佐、三官領、侍所:京都警備、刑事裁判、四職就任、政所:将軍家の家務、財務管理、問注所:記録公文書保存、評定衆、引付衆:訴訟審理/地方 鎌倉府:関東の統治、長官は鎌倉公方、関東官領 上杉、九州探題、奥羽探題、守護、地頭等。
日本史(17)福岡大19/02/28(2)財政:御料所である管轄領が少なかったので新財政として課税を段銭(だんせん)田地への課税、棟別銭の家屋へ課税、倉役、酒屋役の金融業者への課税、関銭、津料等通行税などを課した。(3)守護との抗争(ア)3代足利義満1391年明徳の乱、1399年応永の乱等を通じ有力守護を抑え将軍権力を擁立した。(イ)6代足利義教は専制政治を強行したため守護の赤松氏に殺害され嘉吉の乱、以降に幕府が衰退する。※守護の権限拡大と守護領国制:南北朝の動乱の課程で守護は権限を強化されて有力な守護が地頭を吸収して土地支配を進めたが、守護は領主化して守護大名となって一国を支配して荘園は衰退した。徳政一揆:経済的要求する徳政一揆は正長の徳政一揆が有名で在るが徳政令は出されず嘉吉の徳政一揆で初めて幕府が徳政令を出した。(ア)土一揆:賃金の帳消しを求める徳政一揆が起きた。1428年正長の徳政一揆、播磨の士一揆、嘉吉の徳政一揆。(イ)国一揆:国人の地方士着の有力武士による政治要求に因るもので1485-93年山城の一揆が有名。(ウ)一向一揆:一向宗による浄土真宗の宗教的要求、1488-1580年加賀の一向一揆は守護富樫氏を倒し、一向門徒と国人が一世紀自治支配した。
日本史(18)福岡大19/02/28※都市の発達(ア)門前町:宇治山田、長野(イ)寺内町と一向宗:吉崎(福井)、石山(大阪)(ウ)港町:堺、博多(エ)城下町:小田原、山口(オ)自由都市:会合衆(えごうしゅう)堺、年公司の博多、月行事の京都※鎌倉時代、室町時代の産業経済の比較:ア=鎌倉時代、イ=室町時代、A=農業の牛馬耕と二毛作、B=経済市場、C=経済高利貸し、D=経済運送業、E=経済常設店、F=経済座同業者団体、G=経済輸入銭(A)(ア):畿内、(A)(イ):全国へ一部は三毛作(B)(ア):三斎市、行商人の出現(B)(イ):六斎市、行商人の増加(C)(ア):借上(C)(イ):土倉、酒屋(D)(ア):卸売業者の問丸(D)(イ):問屋の卸売業者、車借り、馬借りの運送業者(E)(ア):見世棚(E)(イ)店棚(F)(ア):発達(F)(イ):増加(G)(ア)宋銭を輸入(G)(イ)明銭の永楽通宝などや撰銭令(えりぜにれい)。行商人には連雀商人、振り売り、大原女、桂女等が居た。撰銭の取引の際に良質の銭を選ぶことを制限した。※近世※戦国安土桃山時代:室町幕府は応仁の乱を機に弱体化する一方下克上の風潮が広まり、戦国時代に至る。戦国の世は織田信長とそれを引き継いだ豊臣秀吉によって統一が進められた。安土桃山時代から江戸時代を近世と呼ぶ。
日本史(19)福岡大19/03/01(1)応仁の乱から戦国時代(ア)1467-77年応仁の乱:8代将軍足利義政の継嗣(けいし)争いが切欠に細川勝元と山名持豊が対立し10年以上の争乱が続いた結果幕府の権威失墜を招く。(イ)15世紀末-16世紀始め戦国大名の台頭下克上の風潮が高まり独自の領土支配を行なう戦国大名が守護代、有力家臣、土豪(どごう)、守護大名から誕生した。有力大名は北条早雲の関東、上杉謙信の越後、武田信玄の甲斐、毛利元就の中国が居る。※領国支配の具体内容:@家臣団を編成する国人地侍すると共に城下町に集住させる。※A喧嘩両成敗法や連座制など領国支配の為の法である分国法を制定する。今川氏の駿河は今川仮名目録、武田は甲斐の甲州法度之次第B土地支配:荘園制を否定し指出検知の支配地の土地状況を自己申告させることを行なうC貫高制:大名が銭高による家臣の身分や土地の保障の代わりに軍役を義務付ける。※(3)1543年ヨーロッパ人の来航:ポルトガル人が種子島へ漂着して鉄砲を伝え交流が進み南蛮貿易のに鉄砲、火薬、生糸を輸入し、銀、刀剣、漆器の輸出した。1549年キリスト教はフランシスコ・ザビエルがイエスズ会への手紙の布教により伝来した。
日本史(20)福岡大19/03/02キリシタン大名が登場し宣教師学校のコレジオや神学校セミナリオなども作られた。※織田信長:商業の自由化を図るため楽市楽座を行なう。反抗した仏教勢力を弾圧したがキリスト教は一貫して保護した。(1)統一経過:1560年桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長が勢力を伸張して上洛を果たし15代将軍足利義昭を擁立した1573年義昭を追放して室町幕府を滅ぼし長篠の戦いで鉄砲隊を駆使して武田勝頼を破る1582年本能寺の変で明智光秀に自刃。(2)政策(ア)土地政策:指出検地を広く実施し荘園体制の解体を進める(イ)経済政策:商業の自由化の楽市楽座や関所の撤廃、堺など自治都市征服など(ウ)宗教対策:浅井、朝倉を支援した延暦寺を焼き討ちするなど政治に加担した一向宗も弾圧した。※豊臣秀吉:太閤検地を行い一地一作人による耕作方法と石高制を確立し荘園を完全に消滅させた。刀狩令や身分統制令を出し兵農分離を図り身分制度を確立した。(1)統一経過:山崎の戦いで明智光秀を滅ぼし強大な軍事力と朝廷の伝統的権威を背景に勢力を伸ばし1585年関白1586年太政大臣に就任する。豊臣姓を賜り1590年に全国統一を果たした。
日本史(21)福岡大19/03/02(2)政策刀狩令等により兵農分離を進ませ近世的秩序基盤が整えられた(ア)土地、農民政策:1582-98年天正の石直しにて石盛をして石高制を確立し一地一作人を原則とする農民の田畑の所有権を認め年貢負担義務付けする。荘園制が完全に崩壊し農民に対する直接支配が実現されて大名知行制の基礎も確立された(イ)1588年刀狩令:農民一揆の防止と農民を農業に専念させる事を目的とした(ウ)1591年身分統制令の人掃令:兵農分離農商分離で近世的身分制度士農工商基礎に。(エ)大名統制政策:全国の大名に内戦の停止を命令し、領地の確定を秀吉に任せると言う法令である惣無事令を1585年に発した。応じない島津氏と北条氏に九州征伐と、小田原征伐を行なう。(オ)外交政策(A)キリスト教の禁止:1587年にバテレン追放令によって宣教師を国外追放としたが、交易は認め不徹底であった(B)朝鮮出兵:文禄の役、慶長の役:豊臣政権の崩壊を早める原因となる。秀吉の死去で撤兵(C)海賊取締令:倭寇海賊行為禁止。※江戸幕府の成立1600年の関ヶ原の戦いで石田三成を破った徳川家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開いたのは1603年。大阪冬の陣は1614年、大阪夏の陣は1615年を経て豊臣氏を滅ぼした。
日本史(22)福岡大19/03/02※幕府の組織(1)幕藩体制:将軍の幕府と、大名の藩による支配体制である(2)江戸幕府の経済基盤(ア)土地基盤:幕府管轄領は天領400万石に加え旗本領300万石計700万石は全国の四分の一を支配し財政基盤とした(イ)主要鉱山:佐渡、伊豆、石見大森、但馬生野などの鉱山を押さえる(ウ)主要都市:京都、大阪、長崎、堺などの重要な都市を管轄し経済利益を得る。※幕府の組織:(1)将軍(2)大老:臨時職(3)老中:政務管轄(ア)大番役:江戸城の警備(イ)大目付:大名の監視(ウ)江戸町奉行:江戸の行政司法(エ)勘定奉行:財政天領の監督(オ)町奉行:京都、大阪、駿府(4)若年寄り:老中補佐(5)寺社奉行:寺社の支配(6)京都所司代:朝廷の観察(7)大阪城代:西国大名の監視などがある。※寺社、勘定、江戸町を三奉行という。役職には譜代大名、旗本、御家人ともに将軍直系の家臣が就任した。※幕府の統制制度(1)大名統制(ア)大名の配置:親藩大名の徳川一門、譜代大名の関ヶ原の戦い以前からの家臣を要地に配置し外様大名の関ヶ原の戦い以降は遠隔地に配置する
日本史(23)福岡大19/03/02(イ)武家諸法度(A)元和令:徳川家康が金地院崇伝に起草させ2代将軍秀忠の名で交付する(B)寛永令:3代将軍家光が参勤交代を制度化して大名は国元と江戸を1年交代で往復し妻子は江戸に住む事を定める。大名の財力を弱める(ウ)1615年一国一城令:各大名の領地城を一つにさせ軍事力を弱体化させる(2)朝廷、公家統制(くげとうせい(A)1615年禁中並み公家諸法度:天皇や公家を統制し京都所司代によって監視を行なう(イ)武家伝奏の設置:公家二名選び朝廷と幕府窓口とし朝廷を操作する(ウ)紫衣事件:後水尾天皇は幕府の許可無く高僧の着る紫衣を与えた。幕府は問題視し無効として抗議した沢庵らを処罰した。後水尾天皇は怒って譲位した。幕府法度を勅許に優先させた。(4)農民統制(ア)村方三役:庄屋、肝煎、組頭、百姓代を中心とした自治組織によって統制した(イ)百姓(ひゃくしょう):本百姓の自作農と、水呑百姓の小作農から成り村民は五人組制により連帯責任を負わされていた(ウ)1649年慶安の御蝕書:農民の日常生活に関して定める※初期の外交貿易と鎖国※鎖国の完成1637年3代将軍徳川家光の時に島原の乱が起こり二年後にポルトガル船の来航jが禁止され鎖国が完成したが長出島にオランダ、中国、朝鮮との貿易は続ける。
日本史(24)福岡大19/03/04(1)朱印船貿易:朱印状の海外渡航許可証を持つ朱印船は東南アジアへ進出し日本町が成立アユタヤで山田長政の活躍、輸入品は生糸、絹織物、砂糖/輸出品は銀、銅、刀剣である。(2)ヨーロッパ諸国との貿易(ア)リーフデ号漂着:ヤン・ヨーステン・ウイリアム・アダムズは三浦按針を江戸に招き外国交易の顧問にする。(イ)商館の開設:1613年イギリス、1609年オランダが平戸に商館を開いた(ウ)慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ):伊達政宗が家臣の支倉常長(はせくらつねなが)を派遣してローマ教皇に謁見(えっけん)させた。メキシコの貿易目的であったものの交渉は決裂した。(エ)糸割符(いとわっぷ)制度:ポルトガル商人の暴利を防ぐ為幕府は糸割符仲間に生糸を一括購入させた(3)アジア諸国との外交(ア)朝鮮:徳川家康は対馬(つしま)藩の宗氏を通じて1609年己酉(きゆう)条約締結し新将軍就任毎に通信使が来日した。(イ)琉球:1609年薩摩藩島津が征服したが中国との朝貢関係は認めたので日中両属となる幕府へは謝恩使が琉球国王の変わり毎に慶賀使を将軍の変わり毎に派遣した。
日本史(25)福岡大19/03/04(4)鎖国の完成:キリスト教の排除と西国大名の統制目的である。幕府は管轄領や全国に禁教令を出しその後ヨーロッパ船の来航制限、禁止、奉書船制度(朱印状と老中奉書)、1635年日本船の海外渡航や帰国の全面禁止。1637-38島原の乱天草四郎時貞が首領を経て1639年ポルトガル船の来航禁止になり鎖国が完成したオランダ、中国、朝鮮の交易を続け、幕府はオランダ風説書によって海外事情を把握していった。※幕府大政の安定化と幕政改革:3代将軍家光の頃幕藩体制が確立しその後文治政治が展開され元禄、正徳(しょうとく)の安定期に入り、幕府財政は貧窮(ひんきゅう)に陥り農村の動揺や武士困窮化問題で三代改革が展開した。※幕府の安定(1)武士政治から文治政治へ:幕府の強硬な武断政治により大名の処分が相次ぎ大量の牢人と浪人が発生社会が不安定化した。由井正雪の乱の慶安の変の後末期養子禁止を暖和し養子を迎えて跡継ぎを認める等文治政治に転換が図られた(2)5代将軍徳川綱吉の政治:学問を奨励(しょうれい)湯島聖堂の設立し、文治政治を行なった。生類憐れみの令を死後発し、貨幣の改鋳(かいちゅう)萩原重秀が元禄小判を鋳造したが質の悪化によって物価上昇を招いた
日本史(26)福岡大19/03/04(3)正徳の治、白井白石:正徳小判を鋳造し海舶互市(かいはくごし)新令により長崎貿易縮小、海外への金銀流出抑止を定める※幕藩体制の動揺と江戸の三大改革の享保(きょうほ)、寛政、天保の改革(1)幕府体性の動揺:貨幣経済の浸透や相次ぐ飢饉(ききん)享保、天命、天保の大飢饉など物価の高騰等によって農村の階層分化が進み、農村では百姓一揆が起き貧農が流入した都市部へは打ち壊しが起きた財政貧窮に陥り武士階級も窮乏(きゅうぼう)に陥る幕政改革に倹約令が三大改革共通の事項が試みられた(2)享保の改革8代将軍徳川吉宗:大名に米を献上させる上米の制、裁判の基準を定めた公事方御定書(くじがたさだめがき)の制定、人材登用制度の足高の制など実施した。(ア)上米の制:大名に対し領地高1万石につき100石上納させて変わりに江戸滞在を半年にする。(イ)足高の制:役職に就くには禄高が無いと就けなかったが有能な人材に不足分の禄高を与えて条件を満たした上でその役職に就かせる人材登用制度。(ウ)相対済まし令(あいたいすましれい):金銭トラブルに関する訴訟は一切受理せず当事者同士で解決させる法律を定めた。(エ)公事方御定書(くじかたごていしょ)裁判の基準を示した判例集であり大岡忠相などが関与した。
日本史(27)福岡大19/03/05(オ)目安箱(めやすばこ):投票箱であり、此れによって小石川養成所が設置された。(カ)実学の奨励(じつがくのしょうれい):キリスト教関係以外の漢訳洋書の輸入を暖和した。(キ)株仲間の公認(かぶなかまのこうにん):商業の統制を図る為に商人や手工業者の仲間組織が組織化された方が望ましいとする方針の下に公認された。(ク)定免法:従来の検見法はその年の米の収穫高や質から年貢率を定める事では年貢率が不安定なので一定期間の年貢率を一律にする定免法を採用した。(3)老中田沼意次:老中田沼意次は株仲間を奨励し長崎貿易の振興を図るなど商業資本を利用した改革を進める。蝦夷土地開発も計画し最上徳内に調査させた。商業資本を積極的に利用する政策を実施したが腐敗を招いて失脚している。(ア)株仲間の奨励:株仲間を奨励する代わりに営業税である運上や冥加(めいか)を課した(イ)蝦夷地開発計画:田沼は、工藤平助の赤蝦夷風説考を読み蝦夷地の開発とロシアとの交易を目指し最上徳内に2度も調査させたが実施しなかった
日本史(28)福岡大19/03/05(ウ)貨幣制度の改革:南繚弐朱金(なんりょうにしゅきん)を鋳造する(エ)長崎貿易の振興:俵物(たわらもの)は中華料理の素材である干し鮑(ほしあわび)やフカヒレなどの俵詰めを中国向けに輸出、金銀を輸入する(オ)専売制を実施:幕府財政の収入増加と貿易統制の為に銅座、人参座等の幕府直営の座を設けて専売制を実施した(カ)印旙沼(いんはんぬま)手加沼の千拓:新田開発、水運の便、利根川洪水防止という一石三鳥(いっこくさんちょう)効果を狙った(4)江戸三大改革 寛政の改革:老中松平定信は寛政の改革を行なった。飢餓に備えて米や金を備蓄する囲米、江戸に流入した農民に帰還を奨励する旧里帰農奨励令、旗本と御家人の借金を帳消しにする棄捐令(きえんれい)等を実施した。(ア)囲米:社倉の住民が穀物や金を出し合い備蓄、儀倉(ぎそう)など裕福なものが慈善として穀物や金を出し備蓄を設ける(イ)旧里帰農令:江戸に流入した飢饉の難民などに旅費や補助金を与え農村に返した(ウ)七分積金(ななぶつみきん):町入用の町政経費の節減額の7割を積み立て米や金を備蓄させた(エ)棄損令:旗本、御家人の借金を帳消しにする(オ)人足寄場:無宿人を収容し職業訓練をさせて就職の機会を与える
日本史(29)福岡大19/03/05(カ)寛政異学の禁:昌平坂学問所の講義を朱子学のみに限定した。林小平は海国兵団を著し外国の日本侵略に備えて海岸防備の強化を主張したが人心を惑わす著作を書いたとして処罰された(キ)天保の大飢饉:寛政の改革終了後に起きた江戸時代の最大の飢饉であり各地で一揆が起きた。その中でも大塩平八郎の乱は幕府に大きな衝撃を与え各地では大塩の見方と称して一揆が多発生田万(いくだよろず)の乱などが起きた。江戸三大改革 天保の改革(老中水野忠邦):株仲間を解散して承認の流通独占を阻止し、人返しの法を出して江戸在住の農民出身者を地方へ強制的に帰還させた。江戸と大阪周辺の大名と旗本の土地を幕府の直轄地にする上知令を発布し強い藩閥に失敗した。(A)人返しの法:農民が村を離れて江戸に住む事を禁止し、出稼ぎで江戸に来る場合は領主の許可を必要とすることにした。(B)株仲間の解散:株仲間の商品流通の独占をやめさせる為に解散させた。(ウ)上知令:江戸、大阪周辺の大名や旗本の領地を直轄地にする為に発布したが大名、旗本の反発によって実施されなかった。※外国船の接近と対応策(1)ロシアの接近:ロシアのラスクマンやレザノフが来航した。
日本史(30)福岡大19/03/13(2)フェートン号事件:イギリス船フェートン号が長崎に侵入しオランダ商館員を人質にして薪水を要求する。(3)ゴローウニン事件:ロシア人のゴローウニンが国後島(くなしりとう)に上陸し捕らえられた事件でロシアは翌年報復で高田嘉兵衛を捉捕らえた。幕府は1825年異国船打払令を発布した。(4)1837年モリソン号事件:アメリカ船モリソン号が浦賀に来航した為幕府は砲撃して撃退した。蘭学者の渡辺崋山と高野長英が幕府を批判して処罰された蛮杜の獄という。(5)薪水(しんすい)給与令:1840-42年アヘン戦争に於ける清国の敗北に幕府は動揺し異国船打払令を暖和し1842年薪水給与令を発布した。※江戸の社会※江戸時代の学問(1)本草学:貝原益軒(かいはらえきけん)大和本草(2)農学:宮崎安貞『農業全書』(3)和算:日本式の数学である関考和『発微算法』(4)国学:日本古来の精神を解明しようとするものであり、賀茂真淵『国意考』本居宣長『古事記伝』、塙保己一(はなわ・ほ・き・いち)『群書類従』が出た。
日本史(31)福岡大19/03/13※(5)洋学:杉田玄白、前野良沢『解体新書』の解剖書の翻訳、伊藤忠敬『大日本沿海輿地全図』※(6)蘭学:渡辺崋山、高野長英、シーボルトの長崎オランダ館の専門医鳴滝塾を開いて蘭学を教える。緒方洪庵(おかたこうあん)。1828年シーボルト事件帰国の際に国禁の地図を持ち出しを図った事件。(7)その他:本田利明(ほんだとしあき)『経世秘策』※産業経済※江戸の産業経済T:農業では農具として備中鍬(びちゅうすき)、千歯こき、千石通しなどが使われ肥料として干鰯(ほしいわし)や油粕(あぶらかす)が使用された。U工業は農村家内工業→問屋制家内工業→工場制手工業と発展した。V貨幣経済が浸透し、金銀銭が使われ両替商や問屋商人が台頭した。(1)農業:農具の発達は備中鍬、千歯こき、千石通し等が盛んになった。肥料は干鰯、油粕など、商品作物は、綿花、桑、麻、(楮)こうぞ、三つ又、煙草、茶、蜜柑(2)漁業:網漁(あみりょう)捕鯨(ほげい)、昆布、俵物(たわらもの)中国向け海産物、製塩業の入浜式製塩法等が盛んになった。(3)工業:農村家内工業から、問屋制家内工業、工場制手工業の製造業へ発展した。
日本史(42)福岡大19/03/13(4)経済(ア)貨幣金銀銭の三貨が使われ金と銀の貨幣単位は両、分、朱であった。金貨は4進法による計数貨幣は一両は四分、四分は十六朱、銀貨は目方による秤量貨幣は一両50-60文と計数貨幣一両は一部銀四枚、二朱銀八枚であった。銭は一両四千文。(イ)両替商:三貨の両替や秤量を商売としている。塢池屋や三井両替商の様な豪商は本両替と言い幕府や藩の公金出納や貸付等の義務も負った。(ウ)藩札:幕府の許可を得て藩内で通用する紙幣。(エ)問屋商人:仲間の同業者組合を結成し営業の独占を図る。幕府は初めに仲間を公認しなかったが営業税の運上や冥加を収めることを条件に公認。江戸の十組問屋、大阪の二十四組問屋(オ)流通:農業や諸産業が発達して全国規模の商品流通市場が形成した。※流通経路:蔵物の年貢米や特産物→各藩の蔵屋敷に集められる→蔵元や掛屋の蔵物を販売する商人→問屋→市場。※江戸時代の交通網(1)陸上:五街道の東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道が発達した(2)海上(ア)交通手段:菱垣廻船(ひがきかいせん)は大阪から木綿、油、酒を江戸に送り、1600年から始め樽廻船(たるかいせん)は大阪から油、酒を江戸に送るものは1600年代後半に始まり主流になる。
日本史(33)福岡大19/03/13(イ)航路:河村瑞賢が東回り航路では太平洋経由で江戸東北間を就航し西廻り航路で日本海経由で東北と江戸と大阪間の就航を整備した。(ウ)河川:角倉了以(すみのくらいりょうい)が富士川や天竜川を整備した※開国(1)開国と不平等条約※(ア)ペリー来航:1853年米ペリーが浦賀に蒸気船による初めての正規の来航し1853年同年にロシアのブゥチャーチンが長崎に来航して開国を要求した。当時の幕府がその来航に驚愕し品川に砲台場を築き現在のお台場という地名の由来となる。(イ)ペリーの再来航:1854年に老中阿部正弘(あべまさひろ)とペリーが日米和親条約を締結して開国した他下田と函館も開港する(ウ)1858年日米修好通商条約:大老井伊直弼(いいなおすけ)とハリスの間で考明天皇の勅許の無いまま締結した不平等条約、神奈川、長崎、新潟、兵庫を開港して領事裁判権を容認したが在日外国人も裁判できない。関税自主権の無い。※安政の五箇条条約アメリカの他、オランダ、ロシア、イギリス、フランスも締結する。(エ)開港後の経済と混乱と桜田門外の変:(A)安政の大獄:貿易による経済混乱と物価上昇の為庶民は生活苦に陥り貿易、外国への反感が高まる。
日本史(34)福岡大19/05/19尊皇攘夷運動が始まり安政の大獄にて批判された幕府は松田松陰らを処刑した。(B)1860年桜田門外の変:尊皇攘夷派の浪士が井伊直弼を暗殺した。※公武合体と尊皇攘夷:幕府と薩摩藩は公武合体を長州藩は尊皇攘夷を唱えたが薩英戦争や四国連合艦隊下関攻撃を経たが薩摩と長州が方針を転換して薩長同名を結んだ。(ア)公武合体政策:老中安藤信正が画策し考明天皇の妹の和宮と、14代将軍の徳川家茂を結婚させるが坂下門外の変で安藤は失脚した。(イ)薩摩藩の外交問題(A)1862年生麦事件横浜の生麦村で薩摩藩の行列を横切りイギリス人を殺害した。(B)1863年薩英戦争:生麦事件の報復としてイギリス艦隊が鹿児島湾に来航し薩摩藩と交戦した。(ウ)長州藩の尊皇攘夷運動(A)1863年下関外国船砲撃事件:長州藩が下関海峡を 交通する外国船に砲撃を加えた。(B)1863年八月十八月の政変:薩摩、会津藩の公武合体派が尊王の攘夷の公家と長州藩を京都から追放した。(C)11864年禁門の変:池田屋事件の報復として長州藩が上洛御所の禁門で薩摩と会津と交戦し敗走した。
日本史(35)福岡大19/05/19(D)1864年第一次長州征伐:長州藩の過激な行動に対し幕府は派兵して制裁し長州藩は降伏した。(E)1864年四国連合艦隊下関攻撃事件:一年前砲撃を受けたアメリカ、イギリス、オランダ、フランスの四国連合艦隊の報復にて下関を砲撃し上陸、砲台占拠。※幕府の滅亡(ア)1866年薩長同盟:土佐の坂本竜馬を仲介として薩摩藩と長州藩が討幕の為に同盟を結ぶ。(イ)1866年第二次長州征伐:高杉晋作の奇兵隊の奮戦によって幕府軍が不利となり将軍徳川家茂の死去に理由で中止された。(ウ)徳川慶喜が15代将軍に就任:フランス式軍制を導入し幕政改革をする。(エ)1867年大政奉還:山内豊信の進言にて徳川慶喜が政権を天皇に返上し江戸幕府の政治が終焉する。(オ)1867年大政復古の大号令:天皇中心の新政権が樹立されその三職の総裁、議定、参与を設置。(カ)1868−69年戊辰戦争(ぼしんせんそう):旧幕府軍と新政府軍の戦争であって鳥羽、伏見の戦いから函館戦争まで続く。※近代※明治維新と近代国家建設:天皇を中心とする明治新政府の政治が始まり富国強兵、増殖産業を目指した諸改革が進められる。他方で民主的改革を要求する自由民権運動も発生した。西洋の思想や洋式を受け入れる風潮を広め文明開化を迎える。
日本史(36)福岡大19/05/19※明治維新(ア)基本方針:1868年五箇条の御誓文:天皇が天神地祇に誓う形で示し天皇親政を強調。1868年五傍(ごぼう)の掲示:徒党や強訴等が禁止したがキリスト教を邪教とする旧幕府軍の民衆統治政策を継承した。1868年明治に改元:一世一元制を定めた。1869年京都遷都(きょうとせんと):京都から名を江戸から改めた東京に遷都した。1869年版籍奉還:領地の版と、領民の籍を藩主が国家に返上。藩主が知事になり統治。幕府藩主に代わり政府が華族士族に秩と言う武士の給与を支給されたが政府の財政負担が問題に成る。1871年廃藩置県:藩を廃止し府と県を置く。知事を罷免し中央政府から府知事や県令を派遣する事で国内政治的統一の完成。1873年徴兵令:満20裁の男子は三年間の兵役を義務にする国民皆兵を定め近代的な国家軍体制の基礎を形成。※経済の近代化産業育成、増殖興業(ア)1873年地租改正:地価を定めて地券を発行し地価の3%を土地所有者の地主や自作農に現金で支払わせた。政府の収入は安定したが農民の負担は軽減せず農民一揆が発生した。税率を2.5%に引き下げる。小作農から領収し納税する寄生地主。
日本史(37)福岡大19/05/19(イ)1872年富岡製糸場:群馬県富岡にフランスの先進技術を導入した官営模範工場として設立された。(ウ)渋沢栄一達の尽力で第一国立銀行は後に第一勧業銀行等が紙幣発行権を持つ民間企業が1873年より多数設立された。後に日本銀行1882年の設立より普通銀行に転向した。(エ)1871年新貨条例:金と銀と銅の新貨幣を鋳造して、円(えん)、銭(せん)、厘(りん)の十進法を採用。(オ)1869−82屯田兵の設立:困窮(こんきゅう)した士族を屯田兵として採用して北海道の開拓と防衛に当たらせる。(カ)士族の不満と反乱に不平士族と自由民権運動:秩禄処分と廃刀令が士族の不満を募らせ西南戦争等が勃発したが是を境に不平士族による運動から民間の自由民権運動に転換した。(ア)四民平等:身分制度を廃止し華族の公家大名出身と士族という武家出身者平民という一般庶民とした。平民には苗字が許可され華族、士族の通婚、職業選択、居住移転の自由を認める。
日本史(38)福岡大19/05/19(イ)1876年秩禄処分:秩禄の給付は政府の財政負担となるので給付を打ち切る為、段階的に実施した。秩禄奉還法により秩禄数ヵ年分一時給付したがその後、全禄公債証書を支給し1876年秩禄支給を廃止した。(ウ)廃刀令:軍人、警察管以外は帯刀を禁止する。(エ)征韓論:鎖国政策を続ける朝鮮を武力を背景に開国させる事が主張されたが内治優先を主張する大久保利通(おおくぼとしみち)らにより却下されて主唱者の西郷隆盛や江藤新平や稲垣退助らが下野した。※※ますます士族の不満が高まり、佐賀の乱、秋月の乱、西南戦争1877年等の士族の反乱が発生した。※自由民権運動:政府に対する自由民主主義的改革運動であり、天賦(てんぷ)人権思想の影響下で藩閥討伐、国会開設などを要求した。自由民権運動の流れ。A=民権派の動きB=政府の対応。1874年(A)※※民撰議員設立白書、立志社設立の稲垣退助。1875年(A)愛国社結成の大阪、自由民権議論を全国に呼びかける。(B)大阪会議後、立憲政体樹立の詔、讒傍律(ぎんぼうりつ)新聞紙条例の制定に言論の自由の弾圧と出版条例の改正。1880年(A)国会期成同盟と国会開設議願書提出。(B)集会条例の制定に集会、結社、言論の弾圧。
日本史(39)福岡大19/05/191881年開拓使官有物払い下げ事件を問題化し開拓使長官黒田清盛。自由党結成に総理が稲垣退助のフランス急流派。(B)参議大隈重信が参議伊藤博文と対立し大隈は罷免された。国会開設の勅諭明治14年政変に1890年に国会開設公約。1882年(A)立憲改進党結成党首は大隈重信のイギリス急流派。民権派政党を民党と言う。福島事件自由党の河野広中、県令の三島通庸(B)伊藤博文らを憲法調査の為欧州へ派遣した。立憲帝政党結成した福地源一郎たちは翌年解党。1884年(A)群馬事件、加波山事件、秩父事件。民主運動の激化に困民党。自由党が解党に秩父事件の直前。大隈が改進党を脱党(B)制度調査局を設置、憲法制定の準備に長官の伊藤。華族令を制定。1885年(A)大阪事件に大井憲太郎に旧自由党、急進派と衰退。(B)内閣制度を制定し初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任した。1886年(A)星亨に旧自由党は大同団結社運動を展開した1889年まで。(B)憲法の起草を開始しロエスレルのドイツが助言した。1887年三大事件建白運動に地租軽減、言論集会の自由、外交失策の回復。(B)※※安保条例の交付、施行し民権派を東京から追放する。1888年(B)枢密院を設置し憲法草案の最終審議。1889年(B)大日本国憲法発布に内閣総理大臣の黒田清隆。
日本史(40)福岡大19/05/19稲垣の自由党がフランス流の急進的自由主義に立つのに対して大隈の立憲改進党はイギリス派の穏健な立憲主義に立った。第一回の衆議院選挙は選挙権が直接国税15円以上納入を要する満25歳以上の男子が有するとされていた。それも全体の1%に過ぎないとされている。※明治政府の発展:明治時代に於いて明治維新の成果が現れ国内の安定を図られると条約改正に努めつつ日清戦争や日露戦争に通じて大陸への進出を図っていった。※周辺諸国と外交政策1871年日清修好条規:日本最初の対等条約である。1875年樺太と千島交換条約:樺太全土はロシアに千島全土は日本領土にする。1876年日朝修好条規:政府は朝鮮に国交を求めたが拒否された。1873年西郷隆盛や稲垣退助は征韓論を唱えたが政府内で反対され辞職した。1875年の江華島事件を契機に翌年日本に有利な不平等条約を締結した。

inserted by FC2 system