福岡だい
2018.7.13(SAT)
幻聴で思った事その4
佐竹義廣(さたけよしひろ)君を詐欺罪で訴えたいです。自署の署名があるにもかかわらず、佐竹君の言い分は、ライセンス譲渡であり、岩田匡君に著作権が帰属すると申し立てた事件がありました。では、福岡繁君の中小企業診断士のライセンス契約は如何なのか、繁君のほうにも自分の自署のサインと、ライセンス契約文が書かれており、本当に代理人が書いたのであれば、申請者の氏名は書かれるはずであり、佐竹君の言い分は違います。佐竹君は、岩田匡君がITをやって、福岡だいとして伏して、岩田匡のアクセス権限で福岡だいと書かれたたという言い分の訴えですが、自分の方が佐竹君を詐欺罪で訴えたいです。そもそも岩田匡君がキャラクターを描いたり、IT機器を駆使したりしてコンピューターグラフィックスなど製作したりしません。TeaCup掲示板や、Gooブログも佐竹君に同様の事を言われ、岩田匡のアクセス権限で別人の名前の署名の著作権を公開したと言い分です。もうここまでくれば、権利の侵害もいいところです。自分としては、佐竹君を知人ではない者として絶対に許せません。どうして、権利を守らない人がそもそも訴えているのか。ふざけて裁判しているのか、日進裁判課にこれ以上の自分に対する紛争の申し立ての訴えを起こさないで欲しいです。自分は、日進裁判課の副会長級です。チェアマンとは会長の意味であり、デスクチェアマンは、課に限られても、副会長級と解釈できます。主任会長は居ませんから実質のトップを自分が握っています。インターネットで公然と認められている職であり、GOOGLEは、自分の評価を日進裁判課の職種と認識し、名古屋榮不動産や、名古屋尾張証券は簡単に見つける事ができません。佐竹義廣君にこれ以上著作権侵害しないように命令します。もう詐欺による詐称は何時ものように聞かされてうんざりです。佐竹君が自分を厨房の人間として勘違いしており、ずっとウエイトレスに続けていると思っています。もう自分は、殆ど飲食業務を扱わなくなったほか、もう農業も、飲食業もやめました。就労支援Bで予定が入れば従いますが、自分としては、もう残っていく意思はありません。次の職が就かないと自分はこれから、創業者を擁護擁立し、不動産を始めていかなければなりません。女性土地取引士は、任期が切れ、今無職で、7人の保護観察処分のものを4人死刑で殺してしまいました。この様な方が何も悪い事をやっていないから、同一人物として確認されている4人に対して、逮捕を受ける方が犯罪したのであって女性土地取引士が法律を破っていないから、死刑にして良いとしたのはもう完全に許せません。人を何だと思っているんだ。女性取引士が、罪を犯した後から、三井住友トラスト不動産に入社し、5年の任期が更新されず退職し逮捕されました。そもそも逮捕が死刑囚では、何のための保護なのかそのことを聞きたい。佐竹君は、連鎖著作権侵害にも関わっていますが、もはやこの様なものは詐称以外のなんでもない。詐称する限りは詐欺もするのであって、知的財産と法律を佐竹君が、岩田匡の執筆によるものだとしたのは、完全に頭にきました。佐竹義廣のような薄汚い方が、自分の知り合いのはずも無いので、著作権訴訟を棄却させてください。自分は、岩田匡君の著作権侵害はしていません。全部佐竹君が詐欺ででっち上げた事であり、佐竹君に懲役10年の求刑は不問ではないものとします。そもそも知り合い出ない理由に、学校業の知人関係ではない事です。自分は、表現の自由を任されたのは南部保育園在学時代です。ゴジラのようなものが火を噴いたり、破壊していく(ゲームソフト的な)絵を描いた事もありましたが、絵画は大のものと南部保育園が認めた事であり、南小学校も、絵画を認めました。おもに自由帳をお爺さんに買ってもらって、キャラクターや落書きを書くようになって、小学校5年ごろからは、スライムの旅という繁君がやってみたいといった長編漫画を作り、冒険をするスライムが鉄の剣や、鉄の盾を持って、戦闘して経験を積んだり、いろいろな町を訪れたりしました。この冒険漫画は、200駒以上を続けましたが、当時の鈴木先生に褒められたり、賞賛されました。しかし、ウルティマを題材にした、ノートブックゲームを創作しはじめたのは、小学校6年の頃で、ブックゲームは鈴木先生にやめるように言われましたが、自分が、プログラミングをしてみたいとプログラマーに憧れを持つようになったのが、小学校6年の時、豊明医大神経科にて、譲られたゲーム集と、コンピューターを受け取り、中学校1年からはマイコンピューターを持ち、打ち込み自体は、小学校5,6年の時ベーシックマガジンからのプログラミングの出会いでしたが、ワープロを始めたのが、小学校6年の頃で、野口の冒険なる短編小説で諦めた物を文豪NECで始めたのが切欠で、プログラミングも、見て書くようになりました。中学校1年からは、植田(名古屋家)から頂いたお年玉で、ハイゾレディスプレイと、PC−9801VX2を購入し、中学校2年までには、情報プログラミングの創作が出来るまで技能が上がり、主に簡単なゲームが出来ました。小学校の夢は、RPGを作ってみたいといったものでしたが、RPGは、途中で挫折して断念しました。しかし、迷路ゲームが作れましたが、当時は、INP関数を使っていたのでキーボードでの入力が容易でした。小さい頃からの憧れで、20代になると、プログラマーに就職したいと両親に相談したところ反対され、飲食店や農業を続けさせられました。自分は、絵画は、中学校時代は殆ど休んでいましたが、コンピューターグラフィックスは出来ました。佐竹君に重要な事はまだ佐竹義廣くんが、まだ自分のプロフィールを知らない事です。夜間高校からは、絵画クラブと、映画クラブに属し、体育では卓球を専攻し、飲食業は15才から初めて、30代で衛生業を退職しています。もちろん、夜間高校が佐竹君に重要な事も無く、自分が、絵画や、アーカイブプログラミングに権限が与えられていた事が伝われば十分ですが、障害について書いているので、佐竹君に口授していただけるとも限らない事は十分承知の上ですが、自分が写真を始める前にやっていた事は、準出版業であって、自分は、出版社の人間だとも評価を大人になってから受けています。それを言ったのは印刷会社です。佐竹君が、出版を岩田匡君と公認していることについて当然として、詐称であり、岩田匡君は、出版に係る経歴を持っていません。岩田匡君本人の意思は、出版は、匡ではないと、佐竹君に今日伝えた事も忘れ去られるかもしれません。岩田匡君が、プログラミングや絵画や写真をやって来たとは言えないとしたことは、佐竹君の行おうとしている詐欺について、岩田匡君は、消防で撮影したのは匡ではないとそう仰られており、誰が写真家かと言った事には踏み込みませんでしたが、他の者をとくさせるもの詐欺とするといった倫理に於いて、佐竹君は匡君に事実的に拒否されました。

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